昭和41年06月18日 月次祭
今日、お昼の食事の後でございました。久保山先生と色々お話を、昼に、朝の御理解の事を先生が話しになっとった。「先生今朝の御理解はもう本当にどういう意味から言うても、丁度良い御理解でございました。第一時間が良かった、それから先生のお話し振りが、ゆっくりゆっくりお話しになっておられますから、あのまぁそれも丁度良かった、時間といい、お話し振りといい、またお話しの内容が、本当にまあ丁度良かった」と言う様なそうですな。今朝の御理解はゆっくりゆっくりお話させて頂いたんですね。
ところがですね、私は少し早口にね、あの言い出しますとね、皆さんが目をパチッと覚まされるんですよ。私はゆっくりゆっくり、私自身が味合わせて頂くように、お話をしたら皆さんがね、朝の御祈念の時でもやっぱり、コックリコックリ皆んなでやるんですよ、だからもう眠りかねなし、もう聞きなさらんなら聞きなさらんかねなし、もうこっちがおかげ頂きゃええというごたる風でで、お話をすると、まぁ今朝のような御理解に、まぁ頂けれるんですけれど。
やっぱり自分も頂かにゃんけれども、お参りしておる方達にも分かって貰いたいと思う。いやおかげ頂いて貰いたいと思う。いや信心を分かって貰いたいと思う。ですからつい短い時間に沢山の事を、まぁ頂いておる内容をつづったり、しかも様々な私の知恵で、出来るだけの範囲で表現力も豊かに、沢山のお話しをしたいと思うと、あんなに朝の御理解なんかはね、まぁ二十分か二十五分位掛るでしょうか。その間にその分かって貰おうとするから、あんなに早口になりましたり、この勢いが出て来るんです。
そうするともう眠っておってもね、パッと目を覚ます、「先生おこりござだろうか」とこう思うらしいんですね。どうですかそうでしょうが。私がゆっくりゆっくり目をつぶったようにして、自分自身が有り難いなぁと思うてから話しよると、皆さんがちやんとほんなこつ眠ってしまう、ね。私は目を開いておるってから言うだけ、言うだけの、やはり先生どうでもおかげ頂かせて下さいと言うて、切実に願うておられる人がね、それをやられたんじゃ私もかなわんという気がするんです。
「先生本当に・・・いけません、おかげ頂かせて下さい」と、いや私もまた、もうこの人の代わりに、どうぞと願いあれば、一生懸命お参りしておる人だと、例えば思うでとですね、やはり、分かってもらわなん、分かってもらわなければ・・・・・・・・・と言うから、つい早口になりましたり、ね、勢いが出て参りましたり、今日の御理解は怒られとるごたったと言う様な事に成って来るんです、ね、ですからどうも一つ、「先生今日の御理解はゆっくりゆっくり、まぁどういう風な丁度良かった。」
と言った様な御理解ばかりを求めず、で後私は申しました。それで段々お話しさして頂きよりまして眠かってもね、私がおかげ話しを始めたらパチッと目が覚めるです、( ? )さんがこの、こんなおかげ頂きなさった様な話しを致しますとね、やっぱ自分も頂くごたある事だけは間違いないらしいです。ですからパチッと目が覚める、分かるここからお話ししよって、ね。それからこの例話、私の御理解のこの非常にこの例、例話が多いですね。例え話しが、例え話しには皆が魅力を感ずるらしいんですね。
だからここぞ、ここが信心ぞという、私が言うところは、コックリコックリやっておって、例話のとこだけピシャッと目を覚ます、あれはどう言う様な事だろうかと、ね。確かに勉強しに学校に通うておるんだけれども、勉強の事を言われるとですたい、ね、本当の向きが変る、ね、もう明日はお休みだじゃと皆が、あぁいっち喜ぶ。ね、明日も先生がおらんっち言うともう、(てんどでびでる)(笑)、そげな勉強しょうごつない。信心もですね本当に信心が分かりたい。
ためには願いを持っておらん訳にゃないですよやはり、けれども、いや信心の勉強だということになってくると、ちょっと眠気が来たりするんですね、どういうごつなだろうか。私はね、椛目で信心を頂かれて、これだけは一つ皆さんに頂いて貰いたい、ということは、勿論信心を皆さんのものにして貰わんならんと言う事なんですけれど、今日そこらへんのところをひとつ、ね、まぁ眠か話やら、眠うなか話やら話しやら混ぜくって話しますけれどですね。
今、今に限ったことはないですけれども、お道の信心に「御取り次ぎを頂いて」という言葉を沢山使われます。「御取り次ぎを頂いておかげを頂いていく」、それがどうも、このう、御取り次ぎを頂いておかげを頂くということに、その重点が置かれておるような気がする。いわゆる頂く者の側が、確かに御取り次ぎ、お取り次ぎを頂かせて貰うとですね、様々なおかげ確かに受けますもんね。ね、ですからこの辺のところがですね、どうも金光様という大きな木がある、親先生という大きな木がある。
それの言うならば、宿り木的なおかげを、皆が頂いておるということです。自分がこの大地からです、しっかり根の生えたような信心さして貰ってです、そしてこの大地からです、しかも金光大神の御取り次ぎを頂いて、天地の親神様から直結して行くと言う様なです、これから吸収していこうとするような、信心になっていないという傾きを非常に感じます。お取り次ぎを頂いて、もういち、もうそれこそ、どの様な事でも、お取り次ぎを頂いてお取り次ぎを頂いてと。
そん中にお取り次ぎを頂いて信心を分からせて頂くということが、大体は強調されてるんですけれども、頂く方の側、私共がです、お取り次ぎを頂けば確かにおかげを受けるんですものね。お願いすればおかげを受けるんです。けれどもそれはどこまでも宿り木的なもの、ね、言うならば、それを神様はすっぱりまぁくしておられます。金光様はすっぱりまぁくしておられます。ね。
けれども私共ぐらいに、信心がまぁへとへとになっておる時なんかは特にです、ただ親先生お願いしますというだけでは、これはこちらの方が枯れそうになる、ようなものを感じるですね。だからどうでも、私のためにも皆さんのためにもです、宿り木的な信心から、本当なお道の信心を、金光大神の御取り次ぎによって、親先生のお取り次ぎのおかげによってです、信心を自分のものにさせて貰おうとする願いが必要なんだ。ね。
それには、肝心要の大事なところをです、頂かせてもらわなければならない。そしていよいよ、また分からせてもろうて、いよいよこの味合いを、分からせて貰わなければならない。成程おかげ話しも頂かせて貰わなければならない。けれどもどこまでも信心話しでなからにゃぁいかん、ね、そこの信心のところ申します時に、天地の道理だ、天地の言わば法則だと、ね、こうしてこうしなければこういう答えになって出てこないんだと、言う様なその計算って言うか、その理屈が出てくるわけなんです。ね。
けれどもここんところの計算の稽古というものがです、私は勉強されなければ、おかげにならん。それがね、どう言う様な事からそう言う様な事に成って来るだろうか。ここはやはり自分本意からのようであるですね。御理解をね自分本意で頂く、神様本意で頂かん、自分の都合で頂く、自分の具合で頂く、「あっあそこは私に言いござるとじゃなかばいの、誰誰さんじゃろう」っち言うちから、誰誰さんの顔でん見っ、「先生があの人にあてつけて言いござるとじゃん」。
自分に当て付けられよるごつは分からんの、「はぁここんところを内の嫁さんに聞かせるとこじゃった。」っち言うてから、自分の嫁ごどんに聞かせとる。そこんにきで間違ってくるんですよね。私はこの話しをいつも一つの例話に、それこそ、私は例話っていうのはいつも同じ例話をしとる、大体、ね、それは本当に分かって貰えると思うからなんです、そりゃここでもそういう例はあるんですけれども、そういう一つの例話としていつも、同じように話す。
私が、福岡での修行中の時分であった。春吉の教会におかげを頂いた。どっかの料亭の仲居さんだったらしい、お取り次ぎを願っておられる。春吉の先生が、一生懸命御理解なさっておられる、私達もその聞かせて頂いておりますから、後ろで御理解頂きよった。久留米の初代のご修行中の話しがあっておった、久留米の初代は偉いお方であった、金光様からでも、真の人と言われるほどの、やはり御信心であった。大空のような心の方であった、豊かな心の方であった、美しい心の人であったと。
けれどもね、あそこまでなられるためには、先生はこう言う様なご修行もなさったという話しをなさっておられた。ね、先生は大変お神酒がやはりお好きであった。それでもやっぱり、一冬を一枚の、一重もの一枚で過ごされるといった修行もなさっておられた。もう御広前を下がられると、もう本当に震え出すように、まぁ寒いこともおありになったろうと。という時にはですね、そのぉ湯豆腐かなんかを作らしなさるとですね、そしてかんかぁんと一杯付けさせて頂いて、それでその、それを頂いて休まれた。
勿論もう布団でも、敷き布団のないと言った様な布団で休みます、けれどもここ腹の中からぽかぽかしておる、その勢で休まれる。と言う様なお話が終わった時に、その仲居さんが言われるですもんね。「本当にその、あげなぁ寒か時には、かんかぁんと付けてからやるならそれはよかですもんね。先生」げな。もう私ほんなこつ横から見ていてがっかりするごたった。その湯豆腐やら、かんがんとするのつを、美味しかった事をいいよるっちゃなかですもんね、ね。
そういう修行のためにはそういう風にして、休んでおられたという事を、言うっとにそれに涙を流して、そこんとこば頂かなんとが、大体したら話が終わってしまったらこりゃようございますもんねっち、そやかてかんがんと付けちから、やんならそりゃ良かごつは良か」げな、ね、もう本当に話してござる、先生もがっかり、これがどういう事かと言うとですね、自分を中心にして頂きよるからです。恐らくその仲居さん、お酒がすきだったんでしょうね、体験者なんですよ。
それからそん飲んでから聞きござったに違いない、自分を中心にしてから頂くからそういう事になるんです。ね、先生の御理解がです、あれは誰彼のため、あれは自分のためじゃなく、自分の、自分の都合の良かようにばぁっかり頂く、御理解を、ね。そしてそれを、内の嫁御に頂かせたり、内のばばさんに頂かせたり、ちゅうごたる風なことで、いっちょん自分がなかっち。ね、結局私は、自分を中心にしてです、自分の事だけが願いよってですね、信心を頂こうといっても頂けるもんじゃないって。ね。
もう本当に自分の心というものを白紙にして、何にもないものにして、そして御理解を頂かせて貰わにゃいけん、そんな風に思います、ね。そこで私がです、椛目で皆さんに信心を頂いて貰いたい、信心を自分のものにして貰いたいと。そこのところを、私は椛目の言わば、独壇場であるというところをです、身に付けておいでられたら、いよいよ皆さんのものであり、それは既に自分のものであり、またあの世にも持って行けると言う様になって来るんだ、と私は思うのです。
どういう事だと思うですか皆さん、手を当てて考えて下さい。4、5日前でした、今この頃毎日、高橋さんが御用頂かれます。もうこの頃委員長が、あんなふうだもんですから、もう結局一番委員長の尻に付いて廻っとりましたから、一番詳しいのは高橋さん、ですからもう出て来ん訳にはいかん、出てこられんでも、しごきださにゃんごたる、でも結局なにをおいてもその、まあ出て来ん訳にはいかん訳なんですよね。でそんな日々でございますけれども、4、5日前でしたお風呂へ一緒に入りました。
それで私がそのお風呂、ちょっとお湯が多すぎましたもんですから、バケツに一杯お湯をとっとった、したら入って気になるですもんね、「はぁ先生は今日は、ちったぁ間違いてござるばいの」っちごたる風で入ってきなさった、まぁそげんでもなかろうばってん、そげんに私は感じられたです、少なくとも、「あら先生今日はお湯が多過ぎるごたるですね」っち。私はそのお湯ね、「こげん時は自分の信心が間違うとる時だ」とこういつも、言う様な話しをするから、うん分かった。
もう私はもう言い訳せやんと、いつかはこの事をです、私が高橋さんに教えてあげる事があるから、この事も覚えとって貰わんならんと思ったから、私は今にもそれを覚えとる、覚えとる4、5日前の事であった、ね、段々私が上がって洗わせて貰う、背中をこすって下さる、自分も洗われる、ね、もうこげんいうか炊きよるとは、そげんちゃんと調子をつけて炊きよる訳ないですからね、悪く温うなる時もありゃあ、熱うなる時もある、そして私も洗いさせて頂いた、高橋さんも洗いなさった。
そして私が最後の掛りをしてから、入らせて頂いた、勿論ここに汲んであった、大きなバケツもあのたらいのお湯も、全部使ってしまった、私が最後に上がる時に、丁度いっぱいだった、そのこと高橋さんお気付きだったでしょうか、ね、もうこの辺はどうにもこうにも仕方のないことなんです、ね、私は夕べの御理解皆さんに申しました、もう本当に信心さして頂く者はね、もう不思議で不思議でたまらん。
言わば信心さして頂く者は、言わば、神様がなら金光様が、信者氏子と呼びかけて下さる。私共、特別神さっ、お取り次ぎを頂いて、日々おかげを頂いておる者はです、それこそ「信心しておかげのあるのを不思議というまじきもの」とおっしゃるんだけれど、日々が不思議で不思議でたまらんという、おかげを受けなければいけません、どげん考えても不思議でたまらん。
昨日、一昨日でしたでしょうか、ね、徹さんが、御祈念の後に参ってこられた、「徹さんあんたが今参って来よったと、神様がちゃんと知ってござったよ」っち、「見てご覧、ほら今、あのお届けさして頂いとった、一生懸命こちらに向かって来るところを頂くんですね、で私お届けさして頂いとりましたら、お参りしてきた、ね、例えば神様がね、あんたが参ってくる、ということを知ってござったと言うだけじゃないよとこの事は、ね、あんたが、例えば一生懸命向こうて来よるというこをです。
神様が受けて下さったということよ」と、「そりゃほんに不思議なこっちゃある、ちゃんと知ってござった」と言う様な事ではなくて、「自分位な者の信心でも、神様は受けておって下さるんだ」ということだと私、ね、それで私話した事です。その前に、今大体、毎日これはもう月次祭じゃろうが、そのむつきじゃろうが、変らんですねこのお参りは。けれども、今大体百八十名ぐらい平均があるです、普通は。それその日に限って、百二十名ぐらいしかなかったです、ね。
ですからそういう時には、その前の日に沢山お参りがあっとった、その明くる日そこにこう、バランスをとって下さるんですよね、神様が一様にそしたらね、私ここに座っとりましたら、「熊本からバスで団体参拝がある」っち、はぁ熊本から参ってくる。参ってくるはずの、(イヤダ?)先生方か、あっちからの信者さんが、いつも参ってくるから、そういうお参りでもあるのかなと思うておった。そしたらほんな十分ぐらいしたら、こんなに分厚い手紙が来た、ね、六十名のお初穂と、六十名のお届けがあった。ね、もう考えてみると不思議な事ばっかり。ね。
そういうです、例えばそういう風な、意味ではなくてもですたい、ね、例えば本当に、天地と私共の間にです、一つの繋がりというものを感じさして頂いて、様々な上にです、神様のおかげを受けておるという印を、先ほど私は風呂のような中からでも 感じさして貰う分からして貰うということ。このへんをです、ね、信心を自分のものに、して頂かなければならん、ね、それが皆さんの財産、あの世にも持って行けれる財産、この世にも残しておけれる財産、ね。
私が申しました、お取り次ぎを頂いておかげを頂くという、言わば宿り木的な信心から、そういう天地との直接の交渉、天地との直接とのおかげ、天地がいつもバックであるなと、天地の親神様と自分がいつも繋がっておるなと、言う様な働き、そういう働きを例えばお風呂に入らして頂いてからでも、感じさせて頂けれるところに、不思議な事じゃなあということやらです、有り難い事だなこういう、お守り御守合の中に、あるんだなということ。自分の心がちょっと間違っておるとです。
今日私、丁度昼に東さんところの、お父さんの百日祭を、奉仕させて頂いた、ね、ほいでいうなら送り出してしまってから私、ちょっと横にならしっ、足を揉んでもろうて横にならして頂いた。神饌室の方では、久富先生と若先生が一生懸命、神饌の御用をさして頂いておる。ね、疲れておるわけじゃないけれども、ちょっと長うならせて頂いて、うとうとしておる。私の心の中に、ちょっとではあるけれども、「どうしてじゃろうか」というようものを感じた、ことがあった、ある事が。ね。
でそんな事を私、寝ながら考えながら、休んだ。そしたら神様があの、お、昔トリトの御用に、あの、トリトの役人が使った、十手っちいうのがありますね、御用とこういう、あれを夢とも御心眼とも頂いたから、ハッと、「はぁほんなこて、起きてから御用さしてもらわんならんなぁ」と思ったけれども、体がかわいい、ほんでから、またそのうとうと休んでおる、ね、文男さんが「先生お風呂が沸きました」と言うたから、お風呂言うてきたから、すぐ私お風呂はいらせて頂いて。
ところがどっこい熱過ぎてから、いっぱい湯を(?)ばならなんようにあった、ね、今日の湯のよう高橋さんがやっとるなさんなら、もういよいよ、先生間違うたるすぐ見破られるとこじゃったばってんが、見破られんやったけん私が今言いよるわけですたい(笑)、だから今日はとうとうお風呂入りませんでした。勿論掛り湯だけでした。ね、そしてこのまま、お祭を仕えられんと思ったから、もうちょっとしたことではあるけれども、ささやかな心の中に、お詫びの修行をさして頂いた。
まぁだそれ適うておるとも感じられませんのですけれども、ね、そのお詫びが適わなければ、次の方へは進んではいけないという信心、ね、ここんところを皆さんがいっつも頂いておられんですけん、ここんところだけはです、皆さんのものにしておかなければいけないのですよ。ね、それには、もうこれはいつも申しますようにです、「本気で改まりましょう、本気で磨きましょうよ」と、天地の親神様が水の性なら、私共も水の性にならせて頂くという事に、本気にならなければ繋がらんって。
天地の親神様が火の性、私共が水の性、ちゅぅんっち消えるじゃないですか、ね、水と油は合わないのです。ねだからというて、なら私になら神様のようになれと言うて一遍になれるわけはないのですから、本気でそうならせて頂こうと。そこを限りなく本気で美しゅうならせて頂こう、一生懸命精進もならせて頂こうと、改まられせても頂こう磨かせても頂こうということにです、その神様の心を心として、その心の中に突入さしてもらおうという信心なんです。
そこに、神様との繋がりが出来る、だから椛目ではですね、これはもう椛目ではここんところを一つ体得、信心のものを自分のものにするということは、ここなんです。と言うてうんなら、もう金光様はいらん、親先生はいらんという意味じゃないです。親先生のお取り次ぎを頂いて、金光様のお取り次ぎを頂いてから、ここんとこを、自分のものにしていこうという、もうすでにそこには宿り木的なものではない、自分のもの、大地に根を下ろした信心、ね。
そこから、大地の一切のものを吸収する、そこから花も咲けば、実も実っていくという、おかげを頂いていかなければならないということ。ね、ここんところを一つ、体得させて頂くための、言うなら信心の稽古が、なされなければなりません。それを自分を中心で、お話し頂いておりますとです、そこんところを右左にしてしまいます、嫁さんに聞かせにゃならん話しであったり、婆さんに聞かせにゃん話しであったり、なってしまうのですよ。ね、私が頂く意外にはないのです。ね。
同時にもういっちょ、大事なところのすとっ、こういうところというところを聞いて頂きましょう。これはもう本当に、私始め椛目の方達が、ここんところで、また天地の親神様の信心を、自分のものにしていきよるんだけれども、まだそれをガサーッと元にもどしていきよるような、感じのするところなんです。昔でした、ある人がです、よか人と会いに行くとです。かみさんに、・・?ごちから合いに行く、一生懸命(?)わけです、ね、して表に出た、したらバスが丁度来た。
「はぁ神様がお許し頂いとるばいな、今日は会うち良かばいの」っと言うちからそのいくわけ、でなんか心に引っかからんとですよ、そういう素晴らしいタイミングの中に、彼女と会うてきよるわけ、けれども結局はその人はおかげを落としました。ね、例えば自分が楽な方へ、自分が楽な方へ、信心さして頂きよってこげなことじゃいけんと思うことをです、ね、そういう風に割り切っていったらやり損うです。これは天地との繋がりではなくて、天地とまぁ同等とは言いません、ね。
けれどもここにはです、私共の言う、めぐりの世界を知らなきゃいけません。めぐりの世界もです、めぐみもです、もう天地の親神様の働きとあんまり変らんくらいな、ですね、働きをするということなんですよ、ね、そういう人を言わば、堕落させよう、楽の方へ誘導しよう、誘導しようとする働きなんです。ですから成程そこんところに、タイミングがピシャーッといくわけなんですよ、「はあ神様に、ま許されたりしるしだ、許されておるんだ」と、と思うて引っ掛るならいけん。
引っ掛かりはせんけれども、それが溜り溜まって、ガサッとやられることになってくるんですね。ね、ここんところを一つ大事になさなきゃいけません、ね、それこそさっきの話しじゃないけれども、白紙になって考えれば分かるて、自分でいつも日頃頂いておる御理解を、ピッと、ね、右とか左とかと言わずに思わずに、こうすることが信心だということが分かっておって、ね、今日は大事な神様のこういう御用があるということが分かっておって、ところが、いわゆる御神意を伺うです、そうやって。
「はぁ今日はもういかんで良かじゃん良か」と言う様なタイミングが、ピシャーッと出てくるこっちの方へ、もうそげん時には、もう絶対めぐりの誘導を受けておると、受けて間違いないです、そうでしょうが、ね、これも私の( ? )さんが聞いて下さりゃ分かる、ね。こえは、段々信心を進めた人の話しですから、もう皆さんの一人一人の上に、合うか合わんか分からんけれども、先日でした。朝の御祈念に久富繁夫さんが、出られようと、丁度御用のところの当番にあたっておられた。
けれども今日は忙しいから、今日は御無礼して、自分の方の御用をさしてもらわんならんと思われた。ね、ところがどっこい、翌朝の御祈念に参ろうと思うて起きたところが、左のこの腕が動かん、奥さんにもませなさったけど、とても動かん、ときに考えなさった、ほんなことこの神様は厳しい、忙しか今日の御用を、それが右左、痺れるもんじゃから、ね、だからここまでの信心っていうのは、私は椛目ではまあ言うなら、まぁ最高に高めらておられる人だと思うですね。
だから「ひさこ、もうもまんでよかっち、俺は分かった、俺は今日は御用に行くぞ。」と、と言うて朝から御用に出てみえた、そして御用を頂いて帰られる頃には、もう嘘のようにそれが良くなったと、ね、ですからさっき申しますように、お気付けなら、お気付けと言った様な事でもです、ね、本当にあの期し期しに頂けれる、信心でないとですね、私が、今日もう本当に、天地と繋がっていくと言う様な、尊い、特別の素晴らしい信心にはならんのです。ね。
自分の身楽の方へ、さっきの私じゃないですけど、自分の身が可愛い、神様が「ほらこげんせんか」っち言いよりなさるばってんか、もう聞いたか聞こえんか分からんで眠ってしもうとる。ね、そりゃ誰っでんありますけれどもです、ね、そういう時にはです、ね、すぐに神様お気付け下さる、言わば風呂は熱うして手のつけられんごと沸いとる、沸いとるとば、すぐ私に一番に言うてきたのに違いないのだけれどもです、ね、「もっとなして早よ入れんじゃったの」と言うわけにはいかん。
こっちの方が間違うとるんだもの、ね、そこで私が、そのお詫びの印に、言わば修行でもさして頂いて、ここに前進される、前に進んでいかれるところまでは、私共の生き方というものを、改めておかなければ、ね、どういう大事なお取り次ぎをさしてもらわにゃんじゃ分からん、どういうおかげを受けなければならない事があるやら分からないということなんです、ね。
私は椛目で信心を、自分のものに、さして頂くためにと、いう言わば講題でお話さしてもらうならば、天地の親神様と私共が、いつもそれも不思議なくらいに、どげん不思議と思おうまいと思うても、不思議と思わにゃおられんと言う位な、不思議な中に、神様と私共との繋がりというものが、金光大神のお取り次ぎによって、それが日々繰り返されていきよると言う所まで、信心を進めていかなければならないということ。
おかげは受けられる、お取り次ぎの時にお願いをする、言うなら、宿り木的なおかげならば受けられるけれども、ね、ここにしっかり大地に根を降ろした様な信心とは、例えば私が今日申しましたような、ところからです、おかげを受けていかなければならん。ね、そのことを申しました、ためには自分という者を中心にしての、ことであってはならん、ね、自分というのを中心と言うよりもです、自分のです、ね、言わば我情我欲を中心にしてはならないということ。
一応自分の、我情とか我欲を一遍払うといてから、考えたらすぐ答えは出てくるということ。ね、そこでも、そういう生き方で行きよってです、間違ったら、ピシッとお気付けを頂いたならです、頂いたものに、その頂くことがまた楽しい、お風呂に入れないことがまた有り難い、「神様の間違いないのには驚くなぁ」と言うて有り難い。ね、そういう信心を、私は身につける、そういう天地の親神様の働きと同時にです、ね、これはもう、聖邪のことでございますから。
一応の力であったら絶対、邪が負けることは間違いないけれども、その同じ力のように、めぐりの働きを私共は、感ずることがある。「これが自分のめぐりじゃろう」と、自分を、楽な方へ楽な方へと、引っ張って行こうとする働き、ね、そういう時に自分を中心にして、自分が楽、身楽の方を中心にして、御神意でも伺うたら、「うんそりゃそんな風にしたらよかろう」と言う様な事になってくる。
そしてそれが溜りに溜まってめぐりになり、それが大きなおかげを、落とさなければならない基にもなってくる。めぐりを誘導に、その罠に掛ってもなんっ、ね、まそういうなことを、今日は申しましたんです。どうぞ一つ折角椛目に、通いよるならですね、信心を自分のものに、ということは非常に広い範囲で使われております、けれども椛目ではです、信心を自分のものにするという事は。
天地の親神様と私共が繋がられるということ、それには天地の親神様の心を心として、その心に近づかせて頂こうという、熱願を持たなければだめだと、天地の親神様が油ならこっちも油にならなきゃいけんと、ね、それに対するところの修行、それに相対するところのめぐりの働きと、それも、自分という、言わば我情我欲を中心にしたんでは、ほんな事分からんというなことを申し上げましたですね。
どうぞ。